64歳になったら

せっせっせ

2009年07月28日 18:21

久しぶりに含蓄のある本を1冊読みました。図書館で別の本を書庫から取り寄せてもらっているときの待ち時間に、何気なく手にとって読み始めたら、棚に戻せなくなってしまい、借りてきたという出会いだったのですが・・・



昭和10年生まれの著者。30代で作家の道に入られて沢山の著書や訳書があるのに、私はこの本に出会うまで知りませんでした。この本は、『別冊サライ』に掲載された13本のエッセイを中心にまとめあげた1冊だそうで、一つ一つのエッセイに厳しさとユーモアがあふれ出ていて、ときに眉間にシワを寄せて読んだり、ときには思わず吹き出してしまったり…。エッセイの中にも「わたしも年をとったらユーモアの連発ピストルのような人物になりたい」と書かれていました。中高年を応援するための随筆集ということなのですが、大人の階段を登る全ての男女に向く本ではないかと思いました。優しさやあたたかさのあふれる文章も多々あるなかで、戒めや悟りを語られた文章は特にぐっとくるものがありました。

どうせ一度きりの人生で、最後はいやでもサヨナラしなければならない。そうだとしたら、ちょとぐらいかっこうが悪いという気がしても、たまさかいただいた生命なのだから、好奇心一杯に首をぐるぐるまわして、おもしろがって生きたほうがいいと思う。あきらかに悪い、と見える客観情勢のなかにいるとしても、その悪い情勢にだってそこでしか体験できないことがある。その悪さを見とどけるのもまたよくはないか。この世は、謎だらけなのだから、謎解き遊びをして楽しんだほうがいいじゃないか。

(携帯電話の必要以上の機能について触れたエッセイで)
しかし人間はそもそも獣である。技術操作者として成熟しても、獣としての成熟がそれにともなわないと、とてもさびしい世界になるだろう。母親を慕うとか、恋人に恋い焦がれるとか、赤ん坊を抱き締めるとか、それらのものを失って悲嘆のなかで明け暮れるとか、そういう手応えが人類本来の行きる場所で、どのような時代がきてもそれは変わらないはずである。人生の味をより深く濃くするために文明の進歩があるのでなかったら、おかしなことになる。(中略)しかし、若い人たちの多感であるべき時期を、すでに文明はそうとう攪乱している。

この前、友人と話していて、「○○ちゃん(私のこと)も**ちゃんも、植物や作物のことをブログに書いているよね。それって何でだろう?」って素朴な質問をされてうまく答えられなかったのだけど、この本のあとがきに著者がぴったりの答えではないかという文章を書かれていて衝撃を受けました。そういうことだったのか!

生きて育っているあいだは、人間はまだ自然そのものである。自然のなかに溶け込んでいるものが、自然を対象として見ることはできない。
(中略)(自然に感銘を受けるのは)わたしたちが自然からやがて離れていく存在であることを意識し始めたから見えてきたものであり、感じることができるようになったものである。もうわたしたちは自然の一部ではない。自然を対象としてみることができる、大人の人間である。


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